明治28(1895)年創業の百年料亭で、料理とおもてなしに大変満足した。さすがとしか言いようがない。青森県。
「別名大舘と呼ぶ、此地唯一の料理店ともいふべく仰いで岩木の秀峰を望み俯して浅瀬石川の清流を掬すべし、酒は美にして肴また佳なり」(『烏城志 : 一名・黒石案内』安西如鳩、安西銍次郎、大正2)。
明治28(1895)年創業の百年料亭で、料理とおもてなしに大変満足した。さすがとしか言いようがない。青森県。
「別名大舘と呼ぶ、此地唯一の料理店ともいふべく仰いで岩木の秀峰を望み俯して浅瀬石川の清流を掬すべし、酒は美にして肴また佳なり」(『烏城志 : 一名・黒石案内』安西如鳩、安西銍次郎、大正2)。
観光寺院ではないけれど、奇抜な山門だけでも一見の価値ある。青森県。
「誓願寺は浄土宗に属す。元禄以来次の火災による古記類焼失のため詳細は不明であるが、この寺は為信の代慶長元年(一五九六)大光寺に建てられ、二代信牧の弘前築城の際現在地に移築されたと云う。此の門だけは焼失を免れ現在に至っているが、旧山門址がこれより南に発見されているから此の門は元来は中門であったらしい。門は、切妻造、妻入、こけら葺の重層四脚門であり、正面中央に高く切妻の破風を表し、下方左右に招破風の妻を添加した誠に珍奇な形式になっている」(『図録青森の文化財 建築物・彫刻』青森県教育委員会、1965)。
観光寺院ではないけれど、奇抜な山門だけでも一見の価値ある。青森県。
「誓願寺は浄土宗に属す。元禄以来次の火災による古記類焼失のため詳細は不明であるが、この寺は為信の代慶長元年(一五九六)大光寺に建てられ、二代信牧の弘前築城の際現在地に移築されたと云う。此の門だけは焼失を免れ現在に至っているが、旧山門址がこれより南に発見されているから此の門は元来は中門であったらしい。門は、切妻造、妻入、こけら葺の重層四脚門であり、正面中央に高く切妻の破風を表し、下方左右に招破風の妻を添加した誠に珍奇な形式になっている」(『図録青森の文化財 建築物・彫刻』青森県教育委員会、1965)。
弘前屈指の老舗旅館で連綿と三百年も続いている。館内はかつて利用した貴賓客の名を記した宿札が今も目にできる。特に客室棟へ繋ぐ廊下の太鼓橋は風情たっぷり。青森県。
明治中期、当時弘前第一の繁華街本町に接続する元寺町は、市役所・管察署・教会・小学校(時敏)のほかに、旅館(斎吉・石場)や芝居小屋(柾木座)なども立ちならび、格式の高い街の風格があった。いまは並の町になった元寺町には、むかしから残っているものとしては、弘前教会・石場旅館くらい」(『弘前の散歩みち』藤田本太郎、小野印刷企画部、1986)。
#旅宿 (151)
弘前屈指の老舗旅館で連綿と三百年も続いている。館内はかつて利用した貴賓客の名を記した宿札が今も目にできる。特に客室棟へ繋ぐ廊下の太鼓橋は風情たっぷり。青森県。
明治中期、当時弘前第一の繁華街本町に接続する元寺町は、市役所・管察署・教会・小学校(時敏)のほかに、旅館(斎吉・石場)や芝居小屋(柾木座)なども立ちならび、格式の高い街の風格があった。いまは並の町になった元寺町には、むかしから残っているものとしては、弘前教会・石場旅館くらい」(『弘前の散歩みち』藤田本太郎、小野印刷企画部、1986)。
#旅宿 (151)
切手にもなった明和八年(1771)築の古民家で、建築年代の明らかな現存民家としては九州で一番古い。鍵屋の一種でその雁行型の寄棟造り外観は非常に特徴的。大分県。
「建築年代は1771年。茅の軒を深くふきおろし、棟は馬屋まで含めて四つもあり、雁行型になっています。広間を中心とした間取りや大小の棟を組み合わせた複雑な屋根はこの地方から大分県西部の民家で多く見られる特徴です。また、この民家には竹が多く用いられており、竹を多く用いる九州以南の民家の特徴も持ち合わせています」(平成10年特殊切手「日本の民家シリーズ第4集郵便切手」説明文より)。
切手にもなった明和八年(1771)築の古民家で、建築年代の明らかな現存民家としては九州で一番古い。鍵屋の一種でその雁行型の寄棟造り外観は非常に特徴的。大分県。
「建築年代は1771年。茅の軒を深くふきおろし、棟は馬屋まで含めて四つもあり、雁行型になっています。広間を中心とした間取りや大小の棟を組み合わせた複雑な屋根はこの地方から大分県西部の民家で多く見られる特徴です。また、この民家には竹が多く用いられており、竹を多く用いる九州以南の民家の特徴も持ち合わせています」(平成10年特殊切手「日本の民家シリーズ第4集郵便切手」説明文より)。
由布院の南にある神社の境内に神木として崇められる杉の巨木。高さ33mほど幹回りは10m以上も。一方神社自体の詳細は不明で、ただ読み方は「おおごしゃ」なのでかなり特異。大分県。
「幹の裏側に大きな空洞があり、内部は畳3畳分ほどの広さがある。明治30年の正月、この空洞の中で焚火をしたのが木に燃えうつり、数十m 上方の幹の穴から煙が吹き出した。消火につとめたが、それでも10日間ほど燃え続けて、ようやく消えた。ところがこれ以来、年毎に弱りをみせ、枯れ始めていた木が急に生々とし、樹勢を回復したといわれる」(『郷土資料事典・観光と旅44 大分県』人文社、1985)。
由布院の南にある神社の境内に神木として崇められる杉の巨木。高さ33mほど幹回りは10m以上も。一方神社自体の詳細は不明で、ただ読み方は「おおごしゃ」なのでかなり特異。大分県。
「幹の裏側に大きな空洞があり、内部は畳3畳分ほどの広さがある。明治30年の正月、この空洞の中で焚火をしたのが木に燃えうつり、数十m 上方の幹の穴から煙が吹き出した。消火につとめたが、それでも10日間ほど燃え続けて、ようやく消えた。ところがこれ以来、年毎に弱りをみせ、枯れ始めていた木が急に生々とし、樹勢を回復したといわれる」(『郷土資料事典・観光と旅44 大分県』人文社、1985)。
大分県。
「豊後國は磨崖佛即ち自然の岩石に彫り出した佛像の多く存するを以て名高いが、この地に遺存する磨崖佛は数量に於ても、美術的價値に於てもその首位を占むるもので、敷十の石佛が溪谷の平地を圍める丘陵の懸崖に羅列遺存し、その主要石佛群は大日山と堂ヶ迫の山腹に遺存して居る。大日山十三佛群像 日吉神社に登る高い石階の中段から左手に折れて進むと、山腹に露出した二十有餘尺の凝灰岩の壁面に大日如來の巨像を中心として佛菩薩や天部の像が刻出されて居る。何れも破損甚しく頗る惨憺たる光景を呈して居る」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
#今昔時旅
#絵葉書
優雅な直瀑で確かに女性的であり雌滝というのは納得できる。だけど西の滝はだいぶ離れていて同じ日に両方尋ねるのはしんどいから別府に近い東の滝のみ愛でた。大分県。
「椎屋の瀧東西二瀑あり、西椎屋の瀧は雄瀧と云ひ、直下約六一米、幅約三米、瀧壼の廣さ五九五方米、深さ六四米弱。東稚屋の瀧即ち雌瀧は雄瀧に比して稍小規模であるが、中段あつて、巖角を怒撃して珠玉を跳らせ、その壮観は彼に譲らない」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
優雅な直瀑で確かに女性的であり雌滝というのは納得できる。だけど西の滝はだいぶ離れていて同じ日に両方尋ねるのはしんどいから別府に近い東の滝のみ愛でた。大分県。
「椎屋の瀧東西二瀑あり、西椎屋の瀧は雄瀧と云ひ、直下約六一米、幅約三米、瀧壼の廣さ五九五方米、深さ六四米弱。東稚屋の瀧即ち雌瀧は雄瀧に比して稍小規模であるが、中段あつて、巖角を怒撃して珠玉を跳らせ、その壮観は彼に譲らない」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
あとは飛行時間以外、乗り場との移動時間、保安検査とかかる時間など、総合的にどれくらい優位性があるか知りたいね。いずれにして持続的にサービス展開できたら応援したい。
www.heli-shuttle.com
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東西二つの峯をもつ双耳峰で、西峰が最高点。由布院周辺はほぼどこでも見えてまさにランドマーク。山頂付近は岩場があって注意が必要だが、概ね登りやすくていい山だ。大分県。
「由布岳は別府湾の西にその三角錐式の標式的な火山円錐の山容を聳え、鶴見岳と共に別府湾の背景をなし、その尖峯は富士に似て豊後富士とも呼ばれて居る。標高一五八三米、塊状火山の特徴を以て居る」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
東西二つの峯をもつ双耳峰で、西峰が最高点。由布院周辺はほぼどこでも見えてまさにランドマーク。山頂付近は岩場があって注意が必要だが、概ね登りやすくていい山だ。大分県。
「由布岳は別府湾の西にその三角錐式の標式的な火山円錐の山容を聳え、鶴見岳と共に別府湾の背景をなし、その尖峯は富士に似て豊後富士とも呼ばれて居る。標高一五八三米、塊状火山の特徴を以て居る」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
ひっきりなしに観光客で賑わう金鱗湖だが、湖畔にある下ん湯はなぜか誰も見向きもしないようだ。混むことを覚悟して戸を開けて入ると誰もいない、大喜びで貸切状態の極上湯を堪能。大分県。
「金鱗湖は、由布岳の麓にあることからかつて『岳下の池』と呼ばれていた。湖底からは温泉が湧出しているので霧の発生を促し、湖畔の茅葺入母屋造りの伝統的共同湯『下ん湯』と一体となって、由布院温泉の優れた景観美をなしている。『下ん湯』共同湯の名前も岳下(岳ん下ん湯)に由来するようだ」(『新版 #日本温泉地域資産』 日本温泉地域学会、2019)。
ひっきりなしに観光客で賑わう金鱗湖だが、湖畔にある下ん湯はなぜか誰も見向きもしないようだ。混むことを覚悟して戸を開けて入ると誰もいない、大喜びで貸切状態の極上湯を堪能。大分県。
「金鱗湖は、由布岳の麓にあることからかつて『岳下の池』と呼ばれていた。湖底からは温泉が湧出しているので霧の発生を促し、湖畔の茅葺入母屋造りの伝統的共同湯『下ん湯』と一体となって、由布院温泉の優れた景観美をなしている。『下ん湯』共同湯の名前も岳下(岳ん下ん湯)に由来するようだ」(『新版 #日本温泉地域資産』 日本温泉地域学会、2019)。
由布川(大分川)沿いにある大きな宿泊施設。露天からは由布岳も眺望でき、比較的コスパのいい旅館だ。大分県。
「一帯は涌泉が豊かで、湯の池、湯の川、湯の田があり、水車が温泉で廻ってゐるなど隨所に湯烟を上げてゐる様は誠に奇觀である。冬季は温泉で暖房の設備をした民家もある。この温泉郷を繞って秀麗な由布嶽、倉木山、鳶嶽などがあり、遥か西南には久住山を盟主とする九州アルプスの翠黛が蜿蜒として走つてゐる。こゝは九州の軽井澤といつてゐるやうに夏は涼しく、蚊帳を用ゐない。殊に澎湃として四邉を立罩める朝霧の大觀は浴客の目を樂しませる」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
由布川(大分川)沿いにある大きな宿泊施設。露天からは由布岳も眺望でき、比較的コスパのいい旅館だ。大分県。
「一帯は涌泉が豊かで、湯の池、湯の川、湯の田があり、水車が温泉で廻ってゐるなど隨所に湯烟を上げてゐる様は誠に奇觀である。冬季は温泉で暖房の設備をした民家もある。この温泉郷を繞って秀麗な由布嶽、倉木山、鳶嶽などがあり、遥か西南には久住山を盟主とする九州アルプスの翠黛が蜿蜒として走つてゐる。こゝは九州の軽井澤といつてゐるやうに夏は涼しく、蚊帳を用ゐない。殊に澎湃として四邉を立罩める朝霧の大觀は浴客の目を樂しませる」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
南山手の石畳の坂を登ったところにある長崎市を代表する観光地。個人的には雨上がりの景観が一番好きかなぁ。長崎県。
「長崎市が文化事業の一環として、昭和45年から49年にかけて建設した、長崎の明治村。面積は約3万m。眼下に望む長崎港を泉に見立て、南方産の花樹をあしらったその庭園は、ロマンチックなムードを漂わせている。オペラ『マダム・バタフライ』ゆかりの地として名高く、マダム・バタフライにふんしたオペラ歌手三浦環の記念像がある」(『郷土資料事典・観光と旅42 長崎県』、人文社、1985)。
南山手の石畳の坂を登ったところにある長崎市を代表する観光地。個人的には雨上がりの景観が一番好きかなぁ。長崎県。
「長崎市が文化事業の一環として、昭和45年から49年にかけて建設した、長崎の明治村。面積は約3万m。眼下に望む長崎港を泉に見立て、南方産の花樹をあしらったその庭園は、ロマンチックなムードを漂わせている。オペラ『マダム・バタフライ』ゆかりの地として名高く、マダム・バタフライにふんしたオペラ歌手三浦環の記念像がある」(『郷土資料事典・観光と旅42 長崎県』、人文社、1985)。
グラバー園にある旧来の3棟住宅のうち、グラバー・リンガーの旧宅と比べて最も標準的な洋式住宅と感じる。車寄せと噴水が揃ったのもここだけ。長崎県。
「本住宅は慶応元年に建築され、幕末から明治にかけて外国の商人が住んだ、木及び石造の一階建の洋風住宅である。日本人が外国人の設計に基づいて施工した洋風住宅と考えられている。正面に車寄せを付け、ヴェランダを正面及び側面に回し、天井を網代天井とする。長崎に建てられた建築年代の古い洋風住宅として貴重であるが、和小屋とし、壁を竹小舞とするなど日本の伝統的な技術が使われている」(『日本の美術第449号 近代の住宅建築』至文堂、2003年)。
グラバー園にある旧来の3棟住宅のうち、グラバー・リンガーの旧宅と比べて最も標準的な洋式住宅と感じる。車寄せと噴水が揃ったのもここだけ。長崎県。
「本住宅は慶応元年に建築され、幕末から明治にかけて外国の商人が住んだ、木及び石造の一階建の洋風住宅である。日本人が外国人の設計に基づいて施工した洋風住宅と考えられている。正面に車寄せを付け、ヴェランダを正面及び側面に回し、天井を網代天井とする。長崎に建てられた建築年代の古い洋風住宅として貴重であるが、和小屋とし、壁を竹小舞とするなど日本の伝統的な技術が使われている」(『日本の美術第449号 近代の住宅建築』至文堂、2003年)。
グラバー園に初めからある住宅の一つ。建物の内外の境はかなり開放的で、門という結界の意識が薄いのが面白い。長崎県。
「本住宅は明治元年頃の建築で、英国の商人フレデリィック・リンガーが建てた洋風住宅である。木及び石造、一階建、桟瓦葺とし、ヴェランダコロニアルの形式をもつ。背面以外の三面には石造独立柱を並べて立て、比較的広いヴェランダを回す。ヴェランダの天井はグラバー住宅と同じ網代を組む。数少ない明治初期の洋風住宅であるが、小屋組は和小屋であり、壁に竹小舞が使われるなど、日本の伝統的な技術を使って建てられている」(『日本の美術第449号 近代の住宅建築』至文堂、2003年)。
グラバー園に初めからある住宅の一つ。建物の内外の境はかなり開放的で、門という結界の意識が薄いのが面白い。長崎県。
「本住宅は明治元年頃の建築で、英国の商人フレデリィック・リンガーが建てた洋風住宅である。木及び石造、一階建、桟瓦葺とし、ヴェランダコロニアルの形式をもつ。背面以外の三面には石造独立柱を並べて立て、比較的広いヴェランダを回す。ヴェランダの天井はグラバー住宅と同じ網代を組む。数少ない明治初期の洋風住宅であるが、小屋組は和小屋であり、壁に竹小舞が使われるなど、日本の伝統的な技術を使って建てられている」(『日本の美術第449号 近代の住宅建築』至文堂、2003年)。
記事一:ラグジュアリースイート?国税当局が目を付けた聖地・高野山の今
mainichi.jp/articles/202...
記事ニ:世界遺産・高野山 宿坊で集団申告漏れ 1億円超、国税指摘
mainichi.jp/articles/202...
記事一:ラグジュアリースイート?国税当局が目を付けた聖地・高野山の今
mainichi.jp/articles/202...
記事ニ:世界遺産・高野山 宿坊で集団申告漏れ 1億円超、国税指摘
mainichi.jp/articles/202...
www.sankei.com/article/2026...
「メモが中国側の立場表明だとすれば、国連海洋法条約を『床に投げ捨て、踏みにじる』内容だと指摘した。会議中にこうしたメモを差し入れたことについても、主催国の韓国に対する『基本的な礼儀』を欠くと批判した。
『これはもはやグレーゾーンではない。実際の威圧、嫌がらせ、侵略だ』と訴えると、会場からは拍手が起きた」。
www.sankei.com/article/2026...
「メモが中国側の立場表明だとすれば、国連海洋法条約を『床に投げ捨て、踏みにじる』内容だと指摘した。会議中にこうしたメモを差し入れたことについても、主催国の韓国に対する『基本的な礼儀』を欠くと批判した。
『これはもはやグレーゾーンではない。実際の威圧、嫌がらせ、侵略だ』と訴えると、会場からは拍手が起きた」。
グラバー園という長崎市の”明治村”にある施設。南山手に残る洋風建築では大浦天主堂と双璧をなす代表的な建築。長崎県。
「明治維新史上最大の政商グラバーの邸宅として建てられたこの住宅は、クローバーのように部屋が張り出す多葉形平面をもっており、居留地の他の住宅の矩形平面に比べて、はるかに変化にとみ、豊かである。設計者は不明であるが、施主が簡単な平面図を描き、仕上を指定して日本人大工にまかせる、という当時一般の方法によったと思われる。洋風の仕上を陰で支える小屋組等の技術はすべて木造の伝統技術によっている」(『近代の美術第20号 明治の洋風建築』至文堂、昭和49)。
グラバー園という長崎市の”明治村”にある施設。南山手に残る洋風建築では大浦天主堂と双璧をなす代表的な建築。長崎県。
「明治維新史上最大の政商グラバーの邸宅として建てられたこの住宅は、クローバーのように部屋が張り出す多葉形平面をもっており、居留地の他の住宅の矩形平面に比べて、はるかに変化にとみ、豊かである。設計者は不明であるが、施主が簡単な平面図を描き、仕上を指定して日本人大工にまかせる、という当時一般の方法によったと思われる。洋風の仕上を陰で支える小屋組等の技術はすべて木造の伝統技術によっている」(『近代の美術第20号 明治の洋風建築』至文堂、昭和49)。
戦後80年が過ぎたが、世の争いは頻発。教訓は生かされないだろうか。長崎県。
「昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾は、一瞬にして7万5,000人の命を奪い、爆心地から半径2km以内はまったくの焼野原と化した。爆心地松山町には、これを永遠に記念するために『原子爆弾落下中心地之標』がたてられ、一帯は平和公園として整備された。公園内には国際文化会館・平和祈念像・平和の泉などがある」(『郷土資料事典・観光と旅42 長崎県』、人文社、1985)。
戦後80年が過ぎたが、世の争いは頻発。教訓は生かされないだろうか。長崎県。
「昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾は、一瞬にして7万5,000人の命を奪い、爆心地から半径2km以内はまったくの焼野原と化した。爆心地松山町には、これを永遠に記念するために『原子爆弾落下中心地之標』がたてられ、一帯は平和公園として整備された。公園内には国際文化会館・平和祈念像・平和の泉などがある」(『郷土資料事典・観光と旅42 長崎県』、人文社、1985)。
予定には入れてなかったが、昼食場所に近かったのでついでに立ち寄った。寛永年間の島原天草一揆で天草四郎が率いる農民軍の戦いはよく知られ、近年世界遺産でも登録された。見所は正直少ないが、山海に挟まれた立地はいい。長崎県。
「南高來郡南有馬町大江の海岸に臨んだ丘陵一帯で、丘上耕地の間に土塁、濠趾等が遺存する。城は東は海水満潮毎に自然の濠をなし、西は泥田で自ら要害をなし、本丸、二の丸、三の丸、天草丸の四區に別たれる。明應九年の築造で原之城と呼ばれ、元和年間松倉豊後守重政の居城となったが、同九年重政島原城に移つてから癈城となつた」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
予定には入れてなかったが、昼食場所に近かったのでついでに立ち寄った。寛永年間の島原天草一揆で天草四郎が率いる農民軍の戦いはよく知られ、近年世界遺産でも登録された。見所は正直少ないが、山海に挟まれた立地はいい。長崎県。
「南高來郡南有馬町大江の海岸に臨んだ丘陵一帯で、丘上耕地の間に土塁、濠趾等が遺存する。城は東は海水満潮毎に自然の濠をなし、西は泥田で自ら要害をなし、本丸、二の丸、三の丸、天草丸の四區に別たれる。明應九年の築造で原之城と呼ばれ、元和年間松倉豊後守重政の居城となったが、同九年重政島原城に移つてから癈城となつた」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
雲仙温泉には2度泊まったがここは移動途中の小休止だけ。閉館してしまった春陽館は気になる存在で、長崎新聞の記事では買い手がつき来年以降の再開は期待できそうなので期待。長崎県。
「島原半島に聳える雲仙嶽の西麓、千々石灘治岸にあり、遥かに野母半島に對し、茂木港と相面し山光水色の美に富んでゐる。溫泉は寛永四年(三一三年前)島原の亂以來本多家の再興したもので、代々湯太夫と称してゐた。温泉所在地は湯町といつてゐるが、そこから北一粁餘、白砂長く續いて海水浴の適地があり、夏は温泉浴に海水浴の楽しみが加はる」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
雲仙温泉には2度泊まったがここは移動途中の小休止だけ。閉館してしまった春陽館は気になる存在で、長崎新聞の記事では買い手がつき来年以降の再開は期待できそうなので期待。長崎県。
「島原半島に聳える雲仙嶽の西麓、千々石灘治岸にあり、遥かに野母半島に對し、茂木港と相面し山光水色の美に富んでゐる。溫泉は寛永四年(三一三年前)島原の亂以來本多家の再興したもので、代々湯太夫と称してゐた。温泉所在地は湯町といつてゐるが、そこから北一粁餘、白砂長く續いて海水浴の適地があり、夏は温泉浴に海水浴の楽しみが加はる」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。
「この地はもと扇島と呼ばれ、扇形を成した小島で、寛永十一年江戸幕府が長崎商人に命じて葡萄牙人のために海中に埋築せしめた所である。同十三年工竣りて葡萄牙の商館を對岸からこゝに移したが、同十六年に至つて葡萄牙人の通商を禁じ退去を命じたため一時空屋となつたが、同十八年平戸から和蘭人を移してその商舘となした。爾來安政元年神奈川條約締結に至るまで我が國に於ける唯一の海外貿易場であつた。明治十九年及三十二、三年兩度の長崎港灣修築以後現状の如くなつたが、営時の遺構として肩形の町並、運路、河岸、二、三の石塀、倉庫等がある」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。長崎県。
「この地はもと扇島と呼ばれ、扇形を成した小島で、寛永十一年江戸幕府が長崎商人に命じて葡萄牙人のために海中に埋築せしめた所である。同十三年工竣りて葡萄牙の商館を對岸からこゝに移したが、同十六年に至つて葡萄牙人の通商を禁じ退去を命じたため一時空屋となつたが、同十八年平戸から和蘭人を移してその商舘となした。爾來安政元年神奈川條約締結に至るまで我が國に於ける唯一の海外貿易場であつた。明治十九年及三十二、三年兩度の長崎港灣修築以後現状の如くなつたが、営時の遺構として肩形の町並、運路、河岸、二、三の石塀、倉庫等がある」(『日本案内記 九州篇』鉄道省、博文館、昭和13)。長崎県。
戦後開業のホテルで、眺望は特筆すべく素晴らしい。港町長崎として夜景は注目がちだが実は朝のほうが個人的により好き。長崎県。
「稲佐山中腹の登山道路沿いに昭和四五年開業した観光ホテルで、東部地区の風頭町の矢太楼や西坂町の日昇館から見る長崎港口から浦上までの男性的な眺望に対し、市中心部と港を見下ろす女性的な展望を誇り、特に館内から眺める夜景はファンタヂックな雰囲気をかもし出す」(『わが町の歴史散歩(2)長崎市(北・西部)』熊弘人、新波書房、1994)。
#旅宿 (149)
戦後開業のホテルで、眺望は特筆すべく素晴らしい。港町長崎として夜景は注目がちだが実は朝のほうが個人的により好き。長崎県。
「稲佐山中腹の登山道路沿いに昭和四五年開業した観光ホテルで、東部地区の風頭町の矢太楼や西坂町の日昇館から見る長崎港口から浦上までの男性的な眺望に対し、市中心部と港を見下ろす女性的な展望を誇り、特に館内から眺める夜景はファンタヂックな雰囲気をかもし出す」(『わが町の歴史散歩(2)長崎市(北・西部)』熊弘人、新波書房、1994)。
#旅宿 (149)