論文で問題とされているインターネットの言論空間――この言論空間において、およそ「黙して語らざる」 大衆は消えたと見える――において、果たしてかかる図式は存在するのか? 個人の精神のうちにそのような認識が存在するとしても、それが何か実体として現前していると考えることがで可能なのか? そもそも知識人なるもの、大衆なるものの構築性や抽象性に無頓着ではいないか? 左派と右派いう政治的立場をこの図式に投影してはいないか?
論文で問題とされているインターネットの言論空間――この言論空間において、およそ「黙して語らざる」 大衆は消えたと見える――において、果たしてかかる図式は存在するのか? 個人の精神のうちにそのような認識が存在するとしても、それが何か実体として現前していると考えることがで可能なのか? そもそも知識人なるもの、大衆なるものの構築性や抽象性に無頓着ではいないか? 左派と右派いう政治的立場をこの図式に投影してはいないか?
だが、何故その見方を取るのかということについて紙幅が割かれていない。そもそも「戦う」なる概念が論者において精緻化されていないから、このような書きぶりになるのではないか。改善点はまずこれである。概念を構築しなければならない。
だが、何故その見方を取るのかということについて紙幅が割かれていない。そもそも「戦う」なる概念が論者において精緻化されていないから、このような書きぶりになるのではないか。改善点はまずこれである。概念を構築しなければならない。
歴史を語る権利は万人にあるというのは論を俟たないが、倫理的姿勢が要求される。この倫理的姿勢というのは、(1)史料に向き合うこと、(2)諸研究を渉猟し、正当に整理すること、(3)精緻な議論を展開すること、である。出来不出来というのはこれをやって初めて論じられることである。逆に言えば、これらのことをせずしてはずっと奈落のまま舞台に上がることはないのだ。
歴史を語る権利は万人にあるというのは論を俟たないが、倫理的姿勢が要求される。この倫理的姿勢というのは、(1)史料に向き合うこと、(2)諸研究を渉猟し、正当に整理すること、(3)精緻な議論を展開すること、である。出来不出来というのはこれをやって初めて論じられることである。逆に言えば、これらのことをせずしてはずっと奈落のまま舞台に上がることはないのだ。