上野康弘
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上野康弘
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a­dha­rma­ka­ra­ṇe '­py e­ṣa va­rta­ya­ty e­va ja­nmi­naḥ |
a­yu­ktaṃ kā­ra­yi­tvā­sau ka­thaṃ yu­kte pra­va­rta­ye­t |­|

pā­paṃ kā­ra­yi­tvā ta­dvyā­va­rta­nā­ya dha­rme pra­va­rta­ya­tī­ti­. ke­yaṃ pre­kṣā­pū­rva­kā­ri­tā bha­ga­va­taḥ­? ta­d i­da­m ā­yā­ta­m — "­pra­kṣā­lya tya­kṣyā­mi­" i­ti­.
September 11, 2025 at 5:58 AM
ta­thā­bhū­ta­m a­dha­rma­pha­la­m a­nu­bhā­va­ya­nn u­ci­ta­kā­ryadā­tā­sau(Moriyama : u­ci­ta­kā­rye­vā­to '­sau) vi­ve­ka­vā­n eva ce­t(Moriyama : ­ vi­ve­ka­vā­n cet), nai­ta­d a­sti­; ya­smā­t —
September 11, 2025 at 5:58 AM
na­nu ya­di sa­rva­jñaḥ śa­kta­ś ce­śva­raḥ­, ta­taḥ ki­m a­jñaṃ ja­na­ma­sa­dvya­va­hā­re pra­va­rta­ya­ti­? e­vaṃ hy a­nu­ci­ta­ka­ra­ṇā­d a­vi­ve­ka­jñaḥ syā­t­.
September 11, 2025 at 5:58 AM
彼(主宰神)は、生類を悪業(adharma)をなすことへも向かわせる。どうして(全能の)彼が(人々に)間違ったこと(ayukta)をなさしめた後、正しいこと(yukta)へ向かわせるのか。

罪( pā­pa )をなさしめてから、それを排除するために、善業(dharma)へと向かわせるということは、世尊が思慮深い行動をしていることなのか。これではまるで「私は洗ってから捨てることにしよう」という(本末転倒の行為)になってしまう。
September 11, 2025 at 5:55 AM
その結果、
在家菩薩→
輪廻内の楽(saṃsārikasukha)をもたらす繁栄(abhyudaya)
出家菩薩→
不苦不楽の性質を持ち、解脱を特徴とする至福(niḥśreyasa)
June 8, 2025 at 6:34 AM
出世間の布施→三輪清浄(deya、pratigrāhaka、dātṛの空)
世間の布施→その三つに執着(saṅga)
June 8, 2025 at 6:19 AM
上述の布施についての波羅蜜の区別を説明するために〔次のように〕いった。
施物と受者と施者に関して空である布施が、出世間の波羅蜜であると 説明された。(MA 1.16abc)……
その三つに執著が生じた〔布施〕、それは世間的な波羅蜜であると示された 。(MA 1.16cd)
新作慶明氏の和訳による。
June 8, 2025 at 6:16 AM
そういえば番組では男性があの風の電話をよく利用するとのこと。なぜなんだろうね。ただなんとなくだが分かるようにも思う。
March 10, 2025 at 10:21 AM
近親者を亡くしたものとして、私もあの場所に行ってみたい。ただ私はあの電話ボックスの前に立つだけで泣き崩れるように思う。
March 10, 2025 at 10:19 AM
[upasargaである]samとudが先行する[動詞語根√pad]は現出(prādurbhāva)を意味する。したがって、縁に到達して(prāpya)現出すること(samudbhava)が pratītyasamutpāda[という語の意味]である。

『『倶舎論』における世親の縁起観』, 平楽寺書店, 2007.
October 18, 2024 at 8:34 AM
(楠本信道訳)ところで、 pratītyasamutpādaという語の意味は何か。[upasarga(Pāṇini 1.4.59)である]pratiとは到達(prāpti)を[標示さるべき(dyotya)]意味とする。[動詞語根]√iとは進行(gati)を[表示対象とする(vācaka)ことを]意味する。upasargaによって動詞語根の意味に変化が起こるから、「到達して」(prāpya)という意味がpratītyaという[語の]意味である。[動詞語根]√padとは存在性を意味する。
October 18, 2024 at 8:31 AM
唐井隆徳訳( この眼という感覚 器官が防護されず住している時、結果として貪欲や落胆という悪しき不善なる諸現象が漏 入するだろう。・・・)
....
So iminā ariyena indriyasaṃvarena samannāgato ajjhattaṃ abyāsekasukhaṃ paṭisaṃvedeti.
彼は、この聖なる根の防護を具足して、内に純粋な安楽を受けます。
『中部』「根本五十篇」「譬喩品」第七〔経〕「小象跡喩経 Cūḷahatthipadopamasutta」
光明寺経蔵の和訳を参照。
September 11, 2024 at 6:41 AM
Yatvādhikaraṇam enaṃ cakkhundriyaṃ asaṃvutaṃ viharantaṃ abhijjhādomanassā pāpakā akusalā dhammā anvāssaveyyuṃ tassa saṃvarāya paṭipajjati, rakkhati cakkhundriyaṃ, cakkhundriye saṃvaraṃ āpajjati.
眼根が守られないままに住するその者へは、貪欲と憂悩をもたらす悪しき不善の諸法が流れ込みます。それゆえ〔比丘は〕、それ(眼根)の防護のため励行し、眼根を守り、眼根における防護に至ります。
September 11, 2024 at 6:41 AM
『大王よ、あなたはどうお考えになりますか? たとえば、一つの田に五種の異なった種子を播いた場合に、それらの種々なる種子に、種々なる果実が生じるでしょうか?』 
『尊者よ、そうです。生じるでしょう』 
『大王よ、それと同様に、これらの五つの領域は、それぞれの異なった業によって生じたのです。同一の業によって生じたのではありません』 
『もっともです、尊者ナーガセーナ』 
中村元、早島鏡正訳『ミリンダ王の問い 1』180頁。
May 13, 2024 at 8:21 AM
王は問う。『尊者ナーガセーナよ、これらの五つの領域(=五つの感覚器官における対象との対応関係)は、それぞれ異なった業によって生じたのですか? あるいは、同一の業によって生じたのですか?』 
『大王よ、異なった業によって生じたのです。同一の業によって生じたのではありません』 
『譬えをのべてください』
May 13, 2024 at 8:21 AM
“Taṃ kim maññasi mahārāja, ekasmiṃ khette pañca bījāni vapeyyuṃ, tesaṃ nānābījānaṃ nānāphalāni nibbatteyyun”ti.  
“Āma bhante, nibbatteyyun”ti.  
“Evam eva kho mahārāja yānimāni pañcāyatanāni tāni nānākammehi nibbattāni, na ekena kammenā”ti.  
“Kallo si bhante Nāgasenā”ti.
May 13, 2024 at 8:20 AM